蜷(にな)の道。

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小さい頃からとても可愛がってくれた叔父が、他界しました。
透析を14年もやりながら、長く苦しい闘病生活だったと思います。
でも、叔父は、苦しいとか辛いとか、一言も言わない人でした。
それは、叔父には俳句があったからだと思います。
45年前に肺結核を患い、その闘病中に出会った俳句。
俳句と共に生き、俳句と共に死んでいった人でした。


叔父の句は、想像の世界の中のものはひとつもなく、
現実の世界のことを写実的にあるままに捉えて
17文字におさめたものばかり。
山形県上山市に生まれ育ち、寒く厳しい冬を知っているからか
何事においてもとても現実的な人だったと思います。


いつも静かな笑みをたたえて、
余計なことは何も言わず、
寡黙なのだけどやはりとても存在感のある。
だからこそ辛いとか苦しいとか、自分の力ではどうもできないことは
発しても意味がないのだと言っていました。


叔父が5年前に出版した句集・樹氷の中には
東日本大震災・原発事故の福島の姿を詠んだ句がおさめられています。
極力感情を抑え、写生に徹しています。


「南風や 瓦礫の中に 半旗立つ」
「牛売つて 一家村出づ 走り梅雨」


叔父は地元で俳句を教えていたようで
告別式のお席で初めて生徒さんたちとお話しすることができました。
透析をやっていましたから晩年はさらさらと鼻血が出て
ティッシュを鼻につめながら、皆さんのところに行っていたそう。
先生からたくさんの教えをいただいたんですよ、
そう仰ってくださいました。


その叔父が、亡くなる3日前に詠んだ句。


「起き掛けの 採血5本 鳥曇(とりぐもり)」


鳥曇とは、渡り鳥が飛んで行く時にものすごい数がいるので
空が曇ったように灰色に見えることを意味した季語。
起き掛け朦朧としているときに血を抜かれ、
目の前が鳥曇りのように灰色になったという一句です。
あぁ、そんな状況だったんだなと涙が止まらず、
叔父は言葉ではなく、俳句で今を表すことで
自分の辛さや苦しさを外に出せていたのかもしれないなと思いました。


そして、生徒の皆さんが、
これが先生の最期の句、絶句ではないかと教えてくれたもの。


「幾病ひ 超えて傘寿(さんじゅ)や 蜷(にな)の道」


80歳(傘寿)となるまで、いくつも幾度も、病を超えてきた。
それはあたかも、苔の上に白い道を作る、小さな蜷のように。
ちっぽけで小さな虫だけれど、確実に、実直に。
そんな私の、80年だったなぁ。


蜷は最後に、蛍となって夏の夜を照らします。
そして、全身で光と共に生ききって、短い生涯を全うします。
叔父は命を本当に豊かに使い切ったんだなぁと思う。

享年82歳。
俳句が、叔父の人生観を変え、こうして残された私に
生きるとは何かという道を教えてくれた。

大切なのは、命の時間は限られているのだということを知ること。
今日があたりまえでないのだと。

ありがとう。
天国に行っても、たくさん旅して句を詠んでね。
本当にありがとう。



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by mikttymama | 2017-05-31 08:40 | 考えること。

福島の小さなお料理教室CookingStudio I-e(イーエ)のうちごはん。


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